浦和地方裁判所 平成3年(わ)136号 判決 1991年12月10日
主文
被告人は、無罪。
理由
第一 公訴事実
本件公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成三年二月上旬ころ、東京都内またはその周辺において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有するもの若干量を自己の身体に施用し、もって、覚せい剤を使用したものである。」というのである。
第二 証拠関係及び証拠上の問題点
本件においては、平成三年二月一〇日、被告人が、覚せい剤取締法違反罪(譲受け)の容疑で通常逮捕され、即日、埼玉県警察浦和西警察署(以下、「浦和西署」という。)で尿の任意提出に応じたこと、当日、被告人から提出されたとされる尿は、その二日後の二月一二日付けで埼玉県警察本部刑事部科学捜査研究所(以下、「科捜研」という。)へ鑑定嘱託され、科捜研からは、同月一四日付けで作成された「右尿から覚せい剤が検出された」旨の鑑定書が提出されたことなどの事実が極めて明らかであるが、被告人は、「前前刑の事件で身柄を拘束された昭和六二年五月以来、覚せい剤を自己使用したことは一切なく、公訴事実記載の覚せい剤自己使用の事実は、全く身に覚えのないことである。」とした上、浦和西署での尿の提出時に、警察官から、採尿容器に他人の尿を混入されたとの趣旨の供述をし、弁護人も、右採尿に携わった警察官の行動や証言の各不審点を縷縷指摘し、本件については、警察官による他人の尿の混入等の違法行為の介在の疑いがあると主張している。
従って、本件における最大の争点は、被告人からの採尿手続に携わった警察官が、被告人から提出を受けた尿に、他人の尿等を混入することなく、そのまま科捜研へ鑑定嘱託したと認められるかという点であり、かりに右の点に証拠上合理的疑いが生じた場合には、鑑定嘱託された尿につき、科捜研から前記のような鑑定書が提出されているにしても、そのことから、被告人が公訴事実記載の覚せい剤自己使用罪を犯したとは直ちに断定することができなくなり、右公訴事実については、合理的な疑いを容れる余地がないほどの立証があったとはいえないことになる。
第三 覚せい剤自己使用事件の特徴及び同事件に対する当裁判所の基本的姿勢
1 一般に、覚せい剤事件、特にその自己使用事件は、目撃者がいないことが多く、通常その捜査が極めて困難であるとされている。確かに、そのような側面がないとはいえないであろう。しかし、判例は、覚せい剤事犯の右のような特質に配慮して、訴追側の証拠収集及び立証の負担を大幅に軽減している。すなわち、覚せい剤自己使用事件における訴追側の立証は、主として被疑者から採取される尿及びその鑑定書に依存するわけであるが、判例は、被疑者が尿の任意提出に応じない場合で一定の要件があるときには、被疑者の陰部にカテーテルを挿入して行う、いわゆる強制採尿という最終的手段を認め(最一決昭和五五・一〇・二三刑集三四巻五号三〇〇頁。なお、右判旨は、最近、被疑者が精神錯乱の状態にあって、その意思を明示できない場合に拡大された。最二決平成三・七・一六判例時報一三九六号一五七頁)、また、起訴状における使用の日時・場所・方法の特定についても厳密なものを要求せず、尿の鑑定書から推認される程度のゆるやかな特定をもって足りるとし(最一決昭和五六・四・二五刑集三五巻三号一一六頁)、更に近時は、身柄不拘束の被疑者を、強制採尿令状に基づき、令状記載の採尿場所へ強制連行することすら適法であるとするに至っている(東京高判平成三・三・一二判例時報一三八五号一二九頁)。このような判例理論の下においては、覚せい剤自己使用事件に関する捜査機関の負担は、著しく軽減され、その捜査は、むしろ、他の一般事件と比べても容易な部類に属するとすらいえると思われる。なぜなら、捜査機関から、覚せい剤自己使用の嫌疑をかけられて尿の提出を求められた者は、これを拒否すれば強制採尿という屈辱的な処分を余儀なくされることを考えて、結局は、自己の意思に基づいて尿の提出に応ずる場合がほとんどであり、あくまでこれを拒否するごく少数の被疑者についても、多くの場合、採尿場所へ強制的に連行した上、医師の手により強制採尿を行わせることによって、その尿を採取することが可能である。そして、捜査・訴追機関は、かくして採取された尿から覚せい剤が検出されたとの鑑定結果が得られる限り、右鑑定書以外に何らの証拠がない場合でも、右鑑定書を唯一の証拠として公訴を提起することができるのであり、このようにして起訴された被告人が公訴事実を争っても、その反証に成功することは、通常、まず考えられない。逆にいえば、捜査機関としては、いかに被疑者が自己使用の事実を否認したとしても、また、自白や目撃供述等他の一般事件の捜査において通常収集される証拠の収集に成功しなくても、右採尿の手続を適正に行い、その証拠保全に遺漏なきを期しておきさえすれば、公判段階において、確実に有罪判決を獲得し得るのであるから、ある意味では、これ程捜査が容易な犯罪は、他に類例がないともいえるであろう。
2 ところが、それにもかかわらず、覚せい剤自己使用事犯をめぐっては、実務上争いを生ずることが多い。その理由が奈辺にあるかを考えてみるのに、右のとおり、尿鑑定書というほぼ絶対的ともいえる強力な証拠を突きつけられた被告人が、なんとかして罪を免れたいと考えて、採尿手続等に不当に難癖をつけている場合も、ないとはいえないと思われる。しかし、他方、犯罪捜査も人間の手によって行われるものである以上、その間に、捜査官の違法・不当な行為が絶対に介在しないという保障はないのであるから(むしろ、捜査に違法・不当な行為が介在した疑いがあるとされた過去の裁判例は枚挙にいとまがない程である。公刊物に登載されたものの中では、例えば、最一判昭和五七・一・二八刑集三六巻一号六七頁、最大判昭和三四・八・一〇刑集一三巻九号一四一九頁、仙台高判昭和五二・二・一五判例時報八四九号四九頁、大阪高判昭和六二・六・五判例タイムズ六五四号二六五頁、豊島簡判平成元・七・一四判例タイムズ七一一号二八一頁などが有名であるが、当裁判所が比較的最近判決した覚せい剤事件の中にも、当裁判所の管轄区域内の警察署の警察官による証拠の破棄・隠匿等違法・不当な行為の介在が強く疑われた事例があった。浦和地判平成三・三・二五判例タイムズ七六〇号二六一頁参照)、この種事犯について被告人が採尿手続等を疑問として公訴事実を争う場合に、かかる弁解を、全て、不当に刑責を免れ、あるいはこれを軽減しようとする、いわゆる「ためにする弁解」であるとして切り捨て、警察官の証言を常に全面的に信用して事実を認定していくのは、正しい採証の態度ではないというべきであろう。そして、覚せい剤自己使用事件に関する警察官の捜査は、前記のとおり、被疑者からの尿採取の手続がその全てであるといっても過言ではない位であり、捜査の中に占める採尿手続の比重が極めて大きいこと、捜査官側が右手続を適切に行って、客観的証拠により、その証拠を保全しておきさえすれば、確実に有罪判決を得ることが可能となること、採尿手続は密室内で行われるため、その適法性を被疑者(被告人)側から争うことは容易でないが、他方、右手続を適切に行い、その過程を明らかにする客観的証拠を保全しておくことは、警察官にとっては、決して困難なことではないことなどの諸点に照らすと、採尿手続をめぐる紛争に関する被告人の供述には十分に耳を傾ける必要があり、これと対立する警察官の証言の信用性の判断は、慎重にされなければならないと考える。
3 当裁判所は、以上のような問題意識のもとに、被告人の提起した問題点につき慎重に審理を尽くし、種種の観点から多角的に検討した結果、以下のような結論に到達した。すなわち、確かに、本件採尿手続をめぐる被告人の供述中に、一部客観的事実に反する部分や、必ずしも全面的には納得し難い部分の存することは、これを否定し難い。しかし、他方、これと対立する警察官らの証言中にも、明らかに事実に反する部分や、覚せい剤事犯の捜査に従事する警察官のそれとして、常識的にみて到底納得し難い不合理な内容が多多存在するのであり、結局、これらの証言は、当裁判所をして、本件採尿手続に関し、異物の混入等被告人が問題とする捜査官の違法・不当な行為が介在しなかったとの確たる心証を形成させるに足りる証拠価値を有するものではない。以上のとおりである。以下、問題の重要性にかんがみ、その理由をできる限り詳細に説明することとする。
第四 証拠上明らかな事実
以下の事実は、証拠上極めて明らかなところであり、被告人・弁護人も、これを争っていない。
1 被告人は、日本大学農獣医学部を二年で中途退学後、窃盗未遂罪及び窃盗罪を犯して服役したが、その後暴力団に身を投じ、現在は、○○組○○一家○○連合○○会の会長補佐の地位にある者であること
2 浦和西署は、平成二年八月に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕したHから得た「被告人に対し覚せい剤を譲り渡した。」との供述等を資料として被告人の逮捕状を請求し、同年九月二七日その発付を受けたが、被告人の所在が不明であるとして全国に指名手配していたところ、平成三年二月一〇日(日曜日)午前四時ころ、警視庁蒲田警察署(以下、「蒲田署」という。)から、「挙動不審のため任意同行した男(被告人)が指名手配中の覚せい剤被疑者であることが判明したので逮捕した。」旨の連絡を受け、直ちに同署へ出向いて身柄の引渡しを受けたのち、同日午前七時三〇分ころ、浦和西署へ被告人を連行したこと
3 浦和西署では、当直の高橋警部補が被告人から弁解を聴取し、引き続いて、防犯課会議室内の一角にある補導室で取調べを行った。そして、被告人の顔つきや挙動から、覚せい剤自己使用の嫌疑を抱いたという同署のA巡査(以下、「A」又は「A巡査」という。)が、被告人を取調べたところ、譲受けの事実を否認し、警察官に対し、挑発的・揶揄的な言動に及んでいた被告人も、尿の提出についてはこれに応ずることとしたため、同日午前八時半ころ、右A巡査(採尿係)及びB巡査(写真係。以下、「B」又は「B巡査」という。)の両名が被告人から尿の任意提出を受けるため、被告人を同道して同署便所へ赴いたこと(なお、右補導室と便所とは、廊下で接続しており、距離的に近い。以下、この際の採尿を「第一回目の採尿」という。)
4 右採尿の際、被告人は、Aから渡された採尿容器を水洗いした上、小便器の前に立って放尿し、その尿を採取して提出した。しかし、Aは、右提出された尿の量が少ないという理由で、被告人にもう一回出すように説得した上、一旦会議室へ戻って被告人に水分を補給させたのち、同日午前一〇時三〇分ないし五〇分ころ、再び採尿のため、被告人を伴って便所へ赴いたこと(以下、この際の採尿を「第二回目の採尿」という。)
5 便所内において、被告人は、便意を催したとして、容器を持ったまま大便室内に入り、大便器にしゃがんだ姿勢で容器に放尿し、右容器を大便室の外にいるAに渡したこと(なお、被告人が、尿の入った容器を大便室の外にいるAに直接手渡したのか、被告人が大便室の外の床に置いた右容器を、Aが拾い上げて入手したのか<被告人の供述>については、両供述は相互に対立している。)
6 Aは、便所内において、右容器中の尿を一部予試験用の紙コップに移したのち、被告人に容器の蓋をさせ、ラベルを貼って被告人に指印させたが、その直前に、紙コップに入った尿を右容器に注入しており、かつ、右尿の取り分け及び注入の作業を、被告人に背を向ける形で、しかも、何らの注意を喚起することなく行ったこと(なお、Aが右容器に注入した尿が、単に、予試験用の尿を取り分けたのが多すぎたから一部戻したにすぎないのか、あるいは、同人が、他人の尿を不法に注入したのか<被告人の供述>については、両供述が対立している。)
7 その後、A巡査らは、被告人とともに再び会議室へ戻り、同室内で被告人に前記採尿容器のラベルに署名させ、指印の追加をさせたこと
8 浦和西署は、その二日後である二月一二日、科捜研に対し右尿の鑑定嘱託をし(嘱託番号一一〇号)、科捜研からは、同月一四日付けで、前記鑑定書の送付を受けており、右鑑定書を作成した科捜研技術吏員関根均の証言によれば、右尿から検出した覚せい剤は、体内代謝物としての特徴を示すとされていること
9 捜査当局は、被告人が、逮捕事実(覚せい剤の譲受け)については終始犯行を否認したため、右事実についての公訴提起をあきらめ、同月二〇日、右事実について被告人を釈放するとともに、右鑑定書等の証拠に基づき前日発付を受けていた逮捕状により、本件公訴事実につき被告人を再逮捕したこと
10 被告人は、右事実についての取調べにおいて、終始犯行を否認する供述をしたが、検察官は、同年三月一二日、本件公訴事実につき、否認のまま、被告人に対し公訴を提起したこと
以上のとおりである。
第五 採尿状況に関する警察官及び被告人の各供述の要旨
1 以上の基本的事実関係を前提とした上で、弁護人は、(1)警察官は、第二回目の採尿に使用した容器を被告人に水洗いさせておらず、右容器には他人の尿が付着していた可能性がある、(2)被告人が採尿容器をAに渡したのち、これに封印・指印するまでの間に、警察官が、これに他人の尿を混入した疑いがある、(3)右容器を封印したのちにおいて、警察官が、特殊な文房具を使用して痕跡の残らないように封印を剥がし、他人の尿を混入した疑いがあるなど三点の疑問を提起しているが、被告人が、本件採尿結果を疑問とする最大の論拠は、後記のとおり、自分が大便室から出た際、Aが採尿容器へ紙コップから尿と思われる液体を注入していたという点にあると思われるのであり、右行動を別とすれば、(1)(3)の各疑問は、いまだ単なる抽象的な疑問の域に止まり(なお、(1)の疑問については、確かに第二回目の採尿にあたり採尿容器を水洗いしている写真は存在しないので問題であるが、被告人は、公判廷において、その際、容器を水洗いしたことを認めているので、この点の疑問もひとまず措くこととする。)、公訴事実の立証に合理的な疑いを抱かせる類いのものではないと考えられる。従って、以下においては、右(2)の疑問を中心に検討を加える。
2 そこで、最初に、採尿容器が被告人からAに渡ったのち、被告人がこれに蓋をして指印するまでの間におけるAの行動に関し、警察官と被告人の各供述が、どのようにくいちがっているかについてみてみることとする。
3 まず、採尿の直接の責任者であるA巡査は、その間の状況について、次のとおり証言している。すなわち、右証言の要旨は、「第二回目の採尿の際、被告人は、自分で水洗いした容器を持って、当初小便器の前に立ったが、『大便も一緒に出るかもしれない。』と言うので、大便室内へ入らせ、便所の扉を開いた状況で監視していると、被告人は、大便器にしゃがんだ姿勢で約二〇CCほど容器に採尿し、これを私に手渡した。そのあと、被告人が便所内のどこに居たのかはわからないが、自分は、便所内の手洗い場の壁に向かって、まず右容器から予試験用の紙コップに一部尿を移したところ、採尿容器の尿がもともと少なかったため、本鑑定用の尿が少なくなりすぎたと判断し、紙コップに移した尿の一部を再び採尿容器の方へ移した。右一連の作業をする際、被告人にその旨ことわったり、よく見ておくように注意したことはなく、私の背後にいた筈の被告人が、この状況を見ていたかどうかはわからない(当時、被告人は、トイレ内にいたが、大便室内から出ていたかどうかもわからない。)。そこで、私は、被告人に対し、便所内で、まず、採尿容器に蓋をさせ、また、私が貼付したラベルの上に何箇所も指印させたが、そのあとで、被告人は、再び便意を催したとして大便室に入った。その後、私たちは、会議室に戻ってから、ラベルの被疑者名欄に署名させ、更に指印の追加をさせた。」というものであり、これによれば、同警察官が尿中へ異物を混入する余地はないことになる。
4 次に、右採尿状況を写真に撮影して二月一〇日付け採尿報告書を作成したB巡査も、概ねこれと同旨の証言をし、尿中への異物混入の事実を明らかに否定するが、同人は、更に、便所内で被告人がAに文句を言ったり、容器への署名指印にあたり抵抗したことはない旨明言している。
5 これに対し、この点に関する被告人の供述の要旨は、次のようなものである。すなわち、それは、「第二回目の採尿の際、自分は、いきなり大便室内に入ったのであって、一旦、小便器の前で排尿しようとしたことはない。大便室内で採取した尿を容器ごとドアの外の床に置いたあと、ドアを閉めてもらって排便した。その後、二、三分から五分以内と思うが、排便を済ませて大便室内から出てみると、A巡査が、茶色い紙コップから黄色い液体を採尿容器の方へ移していた。そこで、『何やってるんだ。』とクレームをつけると、Aは、『予試験の残りとか、予試験用に採取した残りとかを入れている。』と言っていたが、急に近付いて行くと、トイレの棚の上に、予試験用のものが、プラスチックの注射器で吸い上げた状態で取ってあった。便所内で採尿容器に指印を求められたが、納得がいかないので、上蓋だけ閉めて指印は拒否し、補導室へ戻った。その後も、容器への署名をめぐって一〇分位悶着があったが、『おめえ、いい加減にしろ』と言うので、頭に来て、書きなぐりに容器に署名してしまった。また、その前に、指を持たれて、無理矢理に一箇所指印もさせられてしまったので、そのあとは、五十歩百歩だと思って、言われるところに、ぽんぽん指印した。」というものである。右供述は、①二度目の採尿の際は、最初から大便室に入ったものであるとする点、②採尿容器をAに渡したのち、一旦ドアを閉めて排便したという点、③採尿容器へ液体を移しているAに対し、文句を言ったという点、④便所内では、指印を拒否したとしている点、⑤補導室へ戻ったあとも、署名指印をめぐり、悶着があったとする点、⑥指を持たれて、容器に無理矢理指印させられたとする点など計六点において、A=B証言と対立しているが、他方、Aが、被告人に背を向ける形で、紙コップに入った何人かの尿を、被告人の尿の入った採尿容器へ注入したことがあること、右動作の際、Aが、被告人に格別何らのことわりもせず、また、これに注意を喚起することもしなかったことの二点においては、両供述は、完全に一致している。
第六 採尿状況に関する両供述の信用性の比較
一 被告人の供述に対する疑問
被告人の公判廷における供述は、ほぼ一貫し、前記第五5の二点において、A=B両証言と符合するなど、ある程度の証拠上の裏付けを有してはいるが、次の諸点において、必ずしも首肯し難い問題点を包蔵している。すなわち、
(1) 司法巡査(B)作成の採尿報告書(以下、「採尿報告書」という。)添付の写真5には、被告人が便所内において、封印・指印された採尿容器を所持している状況が撮影されており、検察事務官作成の報告書(以下、「報告書」という。)添付のフィルムのベタ焼きによれば、右写真5は、被告人が、会議室へ戻る以前の時点に撮影されたものであると認められるので、「便所内においては抵抗して、容器への指印を拒否した」とする被告人の前記第五5④の供述は、客観的事実に反するものである(弁護人も、第九回公判において、被告人の右供述が客観的事実に反することを、事実上認めるに至っている。)。
(2) 被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書(以下、「員面」「検面」ともいう。)は、いずれも覚せい剤自己使用の事実を否認する、いわゆる否認調書であるが、その中には、採尿現場で警察官から自己の尿に他人の尿を混入された疑いがある旨の主張は全く記載されておらず、その記載は、「いかなる理由により自己の尿から覚せい剤反応が出たのか見当がつかない。強いていえば、日頃飲んでいる風邪薬などの影響ではないか。」という程度のものに止まっている。被告人が、採尿現場において、Aの行動に不審を感じ、これに強く抗議したという前記第五5③ないし⑥の供述が真実であるとすれば、自己の尿から覚せい剤反応が得られたことについての意見を取調官から求められた際、右のような警察官の不当行為を強く訴えるのが通常ではないかと思われる。従って、員面だけでなく検面についてすらこの点の記載が全くないということは(員面・検面が要約録取したもので、逐語的速記によるものでない点を考慮に容れても)、前記第五5③ないし⑥の被告人の弁解の信用性を低下させ得る事情であるといわなければならない。
(3) 証人関根均の当公判廷における供述(以下、「関根証言」といい、他の証人の供述についても、右の例による。)によると、鑑定対象物たる尿中からは、一ミリリットル当たり三四マイクログラムというかなりの濃度の覚せい剤が検出されたとされている。被告人が採取・提出した尿に他人の尿を混入したというだけで、果して、右の程度の濃度の覚せい剤が検出され得るのかについては、若干の疑問があるというべきであろう。
(4) 更に、もし被告人が現認したAの動作が、被告人の尿に他人の尿を混入している際のものであるとすると、Aは、予め混入用の他人の尿を準備して便所へ携行した上、発覚のおそれのある便所内で、被告人の目を盗み、右尿の混入という重大な違法行為をしたことになるが、右の想定にかかるAの行為は、予め他人の尿を便所へ携行したという点で極めて計画的であるにもかかわらず、発覚のおそれのある便所内で混入を実行したという点で拙劣であり、覚せい剤事件の捜査にあたる警察官が、このように計画的でありながら、稚拙・拙劣な違法行為を行ったと考えるのは、いささか常識的ではないのではないかと思われる。
二 警察官の証言に対する疑問
1 しかし、他方、この点に関する警察官らの各証言(それは、いずれもほぼ一貫し、相互に符合するものであるが)についても、いくつかの疑問点を指摘することができる。
2 警察官が、被疑者から尿の提出を受けたときは、これが、覚せい剤自己使用事件における唯一の動かぬ物的証拠であることにかんがみ、その同一性や異物混入の有無等をめぐる紛争を未然に防止するため、当然慎重な手続をすべきであり、被告人から受け取った採尿容器から予試験用の尿を別のコップに移すのであれば、被告人の面前で、その注意を喚起しながらするのが当然であると思われる。しかるに、Aは、採尿容器を受け取るや、壁に向かって勝手に右作業をし、背後にいたという被告人には、何ら注意を喚起したりしていないというのであり、右のような同人の行動は、採尿容器からの予試験用の尿の取り分けという、何らやましいところのない行動をしている筈の警察官のそれとしては、いささか腑に落ちないものである。
3 Aが、予試験用の尿をコップに取り分けたのに、取りすぎたとして一部元の容器に戻したという点にも、疑問の余地がないとはいえない。浦和西署の防犯課勤務だけでも約四年半の経験を有し、採尿手続にも手慣れていた筈の警察官(A)が、同人の証言によっても二〇CC位しかなかったという被告人の尿から予試験用のわずかな量を取り分ける際、誤って、あとから元の容器に戻さなければならない程の量の尿をコップに移してしまうということは、常識的には、たびたびあることのようには思われない。そして、右のように、もともと不十分な量しかない尿から警察官が予試験用の尿を取り分けようとする場合には、貴重な尿の浪費を防ぐ意味においても、直接採尿容器から、予試験用に使用する注射器で正確に必要な量(Aによれば、四ないし五CC。記録三二丁)を取り分ける方法が適切であると考えられるので、そのような方法を取らず、一旦紙コップに予試験用の分を取り分けたとしたり、それが多すぎたので一部元に戻したとしたり、更には、それでも取り分けた分がまだ多すぎて、予試験用に使った残りを便器に捨ててしまったという同人の証言(記録一九丁裏)には、やや不自然なものが感ぜられる。
4 Aらは、その後、被告人から提出された尿につき予試験を行い陽性の結果を得たとしているが、肝心の右予試験は、これを別室で行って、被告人には見せてもいないし、その結果を書面化したり、被告人に告げたりもしていないというのである。しかし、予試験の結果は、それだけでも緊急逮捕の理由とされ得る重要なものであるから、通常、予試験は被疑者の面前で行うことが多いと思われ、特に本件において被告人は、覚せい剤自己使用の事実を否認しながらも、「尿から覚せい剤が出たら何でもしゃべってやる。」などと挑発的ともいえる揶揄的な言動に出ていたわけであるから、被告人の顔つきや挙動から被告人に覚せい剤自己使用の嫌疑を抱いていた捜査官(A巡査ら)としては、予試験を被告人の面前で行って動かぬ証拠を突きつけ、被告人に自白を迫るというのが、捜査の常道であろうと思われる。しかるに、Aらは、右予試験をわざわざ別室で行ったというのであり、また、折角陽性の結果を得たというのに、その結果を被告人に告知しなかった点につき、遂に納得すべき理由を説明することができなかった。Aらの言う当日の行動は、常識上にわかに納得し難いものであり、右の点は、ひいては、同人らが真実被告人の尿の予試験をしたのかどうかについての疑問にも連なるものというべきである。
5 A、Bの両名は、第二回目の採尿の際、被告人に採尿容器を水洗いさせた上、一旦小便器の前に立たせて採尿させようとしたとし、特にBは、採尿報告書添付の写真1は第二回目の採尿にあたり被告人に容器の水洗いをさせている状況、同2は、引き続き小便器で採尿しようとしている状況の各写真である旨明言するが、右写真二葉と同報告書添付の写真3以降とを比較対照すると、右各写真に写された被告人の服装等は、上衣着用の有無、手錠の位置等の点で明らかに違いが認められるので、写真12は、同3以降の第二回目の採尿とは別の機会(おそらくは第一回目の採尿の際)のものと認めるのが相当である(この点は、検察官も同意見である。第八回公判調書中検察官の釈明参照)。そうすると、少なくともこれを第二回目の採尿の際の状況を撮影したものである旨断言する同人の証言は、明らかに客観的事実と抵触し、また、右両証言中、第二回目の採尿にあたり容器を水洗いさせたとの点は、客観的証拠による裏付けを欠くことになる(これに対し、右写真12は、第一回目の採尿の際のものである旨指摘する被告人の供述は、信用性が高いというべきである。)。
6 第二回目の採尿の際の被告人の動作に関するA=B証言は、前記のとおり、「小便器で採尿できなかった被告人は、続いて大便室に入り、容器に採尿した上、排便はしないで一旦大便室から外へ出、一部予試験用に取り分けたあとの採尿容器に封印・指印したのち、再び大便室へ入った。」というものであるが、被告人が、当日、下痢気味で腹具合が悪いと訴えていたことは、Aも認めており、事実と認められること、第二回目の採尿が現に大便室内で行われていることなどからすると、「第二回目の採尿にあたり、自分は、一旦小便器の前に立ったことはなく、直接大便室へ入った。」という被告人の供述の方が、一旦は小便器の前に立ったというA=B証言より自然であると思われ、右両証言は、第一回目の採尿時と第二回目の採尿時の各写真を混用して作成した採尿報告書の記載に不当に引きずられている疑いが強い(のみならず、これらの証拠関係からすると、第二回目の採尿の際、被告人に容器を水洗いさせた事実がないのに、第一回目の採尿の際の容器の水洗い状況の写真を使用した写真撮影報告書を作成することにより、あたかも、第二回目の採尿に際しても容器を水洗いさせた外観を作出しようとしているのではないかという疑いすら、完全には払拭し難い。)。
7 更に、大便室で採尿したのち、被告人が排便することなく一旦大便室を出たとするA=B証言と、右採尿後引き続き大便室内に止まって排便をしたとする被告人の供述を比較すると、下痢気味で便意を催し大便器にまたがって排尿したという被告人が、その直後に排便しないまま一旦大便室を出て、容器へ指印したあと、再び大便室に入るというのはいささか不自然であって、むしろ、引き続いて排便を済ませようとするのが通常であると思われるから、右の点に関する警察官の証言は、被告人の供述と比べ信用性が高いとはいえない(もし、この点に関するA=B証言が誤りであるとすれば、右は、被告人から採尿容器を受け取ってからこれに封印・指印するまでの間、採尿容器が被告人の視界から消えたことがないことを強調するための虚偽供述であるということになろう。)。
8 なお、本件捜査の実質上の責任者であったC警部補(以下、「C」、「C警部補」又は「C刑事」という。)は、二月一〇日当日昼の一二時ころ署へ出勤した旨証言するが(記録一四六丁裏)、Aは、第二回目の採尿手続後、容器をCに引き継いだ旨証言しており(記録一八丁裏)、A=B証言によれば、右第二回目の採尿は、午前一〇時半から一一時にかけて行われたことが明らかであるので、Cの出勤時刻に関する証言は、A=B証言と矛盾・抵触するというべきである。
9 以上のとおり、採尿状況に関する警察官らの証言にも、客観的事実に反したり、常識的ににわかに納得しかねる不合理な点が少なからず見受けられる。
三 一応の結論
1 右のとおり、採尿状況に関する被告人と警察官の各供述を個別に検討する限り、そのいずれにも、客観的証拠と矛盾したり、常識上にわかに納得しかねる不合理と思われる点が存在し、いずれが信用に値するかについて、的確な心証を形成することができない。
2 そこで、以下、本件捜査に関するその余の問題点を検討し、これとの関係で、両供述の信用性を更に検討することとする。
第七 本件捜査遂行上の問題点
一 採尿にまつわるその余の問題点
1 前記第六においては、A=B証言の信用性に関連して、本件採尿上の問題点を指摘したが、右検討の結果明らかとなった主要な問題点をまとめてみると、次のとおりである。
(1) 第二回目の採尿にあたり、Aらは、被告人に容器を水洗いさせた写真を撮影していないのに、第一回目の採尿の際の水洗いの写真を流用して、第二回目の採尿報告書を作成していること
(2) Aらは、被告人から受け取った採尿容器から予試験用の尿を小分けしたというが、少なくとも、その旨を告げて被告人の面前でしたわけではなく、被告人に背を向けて勝手にしてしまったことを認めていること
(3) しかも、Aらは、被告人の尿の入った採尿容器に尿を注入するという、客観的にみて疑いを招き易い行動をしたのに、同人らのいう右行動の意味(取り分けた被告人の尿を、単に戻すだけであるということ)を被告人に全く説明していないこと
(4) 折角取り分けた尿で行ったという予試験も、被告人の面前でせず、別室で行ったとしているだけであり、その結果を被告人に告げることもしていないこと
(5) 便所内における被告人の動作に関する両名の証言中には、被告人の供述に比し、信用性が高いとはいえない点があること
以上のとおりである。
2 しかし右採尿に関しては、更に次のような問題点も存在する。すなわち、Aらは、第一回目に被告人から尿の提出を受けた際、量が少ない(同人らの証言によると二〇〇CCの容器の三〇分の一位、すなわち約六CCということになるが、被告人の供述によると約一〇CCとされている。)として、これを勝手に廃棄してしまったというのであるが、いやしくも、被疑者から一旦は尿の任意提出を受けた以上、右尿の処分については慎重な手続が求められて然るべきであり、量が足りないとして廃棄するのであれば、被疑者(被告人)の了解を得てその面前で行い、後日の紛争の種を残さないようにする必要がある。しかるに、Aらは、このような点を何ら意に介することなく、被告人の注意を喚起することもせずに勝手に廃棄してしまったというのである。しかも、右第一回目の採尿で採取・提出された尿は、確かに十分な量ではなかったようであるが、少なくとも、予試験に必要とされる量を越えていたことは、両証人とも認めているのである。しかし、Aらからは、それにもかかわらず、第一回目の採尿の結果採取された尿を利用して予試験を行わなかったことについては、何ら合理的な理由の説明がされていない。右の点は、第二回目の採尿の際、同人らが他人の尿を混入したか否かという本件の争点とは直接かかわりがないようにも思われるが、必ずしもそうとばかりはいえない。なぜなら、例えば、第一回目の採尿の結果採取された尿を、Aらが廃棄することなく別室に持ち帰って予試験をした結果、覚せい剤反応が得られなかったと考えると、右は第二回目の採尿にあたり、Aらに、予め他人の尿を携行して便所へ赴くことを決意させる一つの動機、きっかけとなり得る事実であるということができるからである。
二 注射痕に関する捜査の不備
1 次に、本件に関しては、注射痕に関する捜査が甚だ不備で、しかも不可思議な経過をたどっていることが指摘されなければならない。
2 覚せい剤自己使用事件における有罪立証の決め手となるものは、前記のとおり尿の鑑定書であるが、それを側面から支える客観的証拠として実務上重視されているのが、注射痕の写真である。それは、覚せい剤自己使用の最も代表的な方法が注射によるものであるところから、現実に検挙され有罪立証が見込まれる事件については、被疑者の身体のどこかに新しい注射痕を確認することができるのが通常であるため(現に、覚せい剤事件の捜査歴二〇年という浦和西署防犯係のC警部補は、尿から覚せい剤が検出され、直前に覚せい剤の注射をしていたとみられる被疑者で、真新しい注射痕が見当たらなかったケースは経験していない旨証言している。記録一八〇丁裏)、捜査官としては、自己使用の嫌疑を抱いた被疑者に対しては、まずもって、その身体に新しい注射痕が存するか否かを観察し、その発見に成功した場合には、これを写真に撮影して客観的証拠の保全に努めることになるからである。
3 しかるに、本件において浦和西署の警察官は、別件の覚せい剤譲受けの事実で逮捕された被告人の身柄を受け取ったのち、被告人に対し直ちに尿の提出を求めながら、その身体を見分して発見したという注射痕については、その写真撮影を行って証拠保全を図るという、覚せい剤事犯の捜査のイロハともいうべき手段を講じていない。すなわち、右の点につき、当時浦和西署の防犯係長で本件捜査の実質上の責任者であった前記C刑事は、被告人逮捕の連絡を受けて二月一〇日(日曜日)に登庁し、送検のための書類の編綴をし、また、連休が明けたあとの同月一六日以降、逮捕事実(譲受けの事実)について被告人の取調べを開始し、併せて、被告人の両腕・両足について注射痕の確認をしたところ、両腕の内側に斜めに走る注射痕と左足の踝あたりに斜めの注射痕を発見し、いずれも真新しいものはなかったが、腕の注射痕は、経験と勘から判断して、一〇日位前のものと判断した旨証言するけれども、当時発見した注射痕を写真に撮影しなかった理由については、「日曜日で、人が」とか(記録一五二丁)、「ほかの者が撮っていると思ったから。」(同丁裏)「逮捕時点で(他の人が)撮っていると思っていた。」(同一六六丁)などという程度の説明しかすることができず、更に、取調べの際に一件書類を見た筈ではないかとの追及を受けるに及び、書類の中に注射痕の写真がないことには「気が付きませんでした。」との証言をするに至っている(同一六七丁裏)。
4 しかし、右C証言は、にわかに信用し難いというべきである。なぜなら、捜査機関が、覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕した被疑者に対し、まず例外なく(すなわち、被疑罪名が自己使用罪であると否とにかかわりなく)、尿の提出を求めるとともにその身体を見分し、注射痕又はそれらしき痕跡を発見した場合に、直ちにその写真を撮影して証拠の保全に努めていることは、当裁判所に顕著な事実であって、防犯関係の捜査歴が通算二〇年に達し、覚せい剤事犯の捜査の経験も極めて豊富なCが、その証言するような理由により、発見した注射痕の写真撮影の指示を怠るという初歩的なミスを冒したとは、にわかに考え難いことだからである。しかも、Cは、その後、被告人に対する被疑事実が「譲受け」から「自己使用」に切り換えられたのちも右写真撮影の指示を行わず、事件送致を受けた検察官から、注射痕の写真が存在しないことを指摘されて写真の撮影を求められるや、被疑者(被告人)が身体の検査を拒んでいるわけでもないのに、わざわざ裁判官から身体検査令状の発付を得て、逮捕の約一月後である三月一一日、医師Dの立会いのもとに身体検査を実施しているのである。Cは、被告人が拒否しているわけでもないのに、右身体検査を、令状に基づいて行った理由について、遂に納得すべき理由の説明をすることができなかったが、同人が検察官に注意されて身体検査に踏み切るまで約一月もの長期間、注射痕の写真を撮影していなかった事実を併せると、この点については、同人が注射痕の捜査を長期間放置しておきながら、その点についても抜かりなく手配をしていたかのような、一見もっともらしい外観を作出しようとしたのではないかとの推測を容れる余地を生ずるというべきである。
5 二月一六日の取調べの段階で、Cが、注射痕の写真の存在しないことに気付かなかったというのが、かりに事実であるとしても(そのような仮定の成立しにくいことは、前述したとおりであるが)、その後、被告人に対する取調べが進み、譲受けから自己使用へと罪名が切り換えられ、自己使用の事実の事件記録を検察官に送致したのちにおいても、同人が注射痕の写真の不存在に気付かなかったというようなことは、事実上、まず信じ難いことといわなければならない。右のとおり、注射痕の写真撮影をしなかった理由に関するC証言は、常識上到底納得し難く、このことからすると、同人の証言にもかかわらず、逮捕の時点において、被告人の身体には、写真撮影に値するような真新しい注射痕は存在しなかったのではないか(被告人は、まさにそのように供述している。)との疑問も払拭し難いというべきであろう。
6 なお、ここで、三月一一日に行われた身体検査の結果を記載した身体検査調書及び当日右検査に立ち会った医師Dの証言について触れておく必要があると思われる。浦和西署の嘱託医であるD医師の証言によると、右検査当日被告人の左右前腕部と左足首に注射痕らしきものがあり、いずれも血管に沿って集簇的に生じていたが、右前腕部の痕跡は一か月から六か月位前のもの、左前腕部の痕跡は六か月から一年位前のものであり、最も新しいとみられる左足首の痕跡は一か月から二か月位前のものであると判断したというのである。しかし、同証言によっても、注射痕の陳旧度に関する判断の根拠は、結局のところ、「経験と勘による」とされていて、右証言と身体検査調書添付の写真のみによって、同証人の指摘する注射痕が、その一月前(すなわち、公訴事実記載の二月上旬ころ)に生じたものと認めるのは躊躇せざるを得ない。のみならず、同証人は、被告人の左足首の注射痕を最も新しいものと判断したとしているが、これに対し、Cが、右身体検査より一月近く前の二月一六日の時点で被告人の身体を見分して「最も新しい一〇日位前の注射痕」と判断したというものは、前記のとおり腕部のそれであり(記録一五一丁裏)、CとDの間ですら、注射痕の陳旧度に関する所見にくいちがいを生じている。右の一事からみても、逮捕の一月後にもなって初めて行われた身体検査の結果やD証言を重視して、「右身体検査の時点において、被告人の身体に、その約一月前(すなわち、公訴事実記載の二月上旬ころ)に生じたとみられる注射痕が存在した」と認定することの危険であることは、多言を要しないと思われる。
三 その余の捜査上の問題点
1 本件については、以上のほかにも、覚せい剤被疑者から採取した尿の管理が極めて杜撰であった点が指摘されなければならない。この点は、被告人の尿に混入すべき他の被疑者の尿を、同署の捜査員が入手し得たか否かという論点と関連する重要な問題である。
2 被告人は、当公判廷(第四回公判)において、「当時自分が取調べを受けていた補導室の床の上に、覚せい剤被疑者の尿が入っていると思われる容器が置いてあった。右容器は、自分が初めて補導室に連れて来られた時にはもう置いてあり、二月二〇日頃まであった。容器のラベルに記載された取調官の名前が、自分の別れた妻と同名の『春子』であったところから、よく覚えており、警察官に『俺以外にも覚せい剤でパクッている者がいるのか。』と聞いたら『いる。』との答えだった。」旨特異な供述をした。当裁判所は、当初、覚せい剤事件の捜査を行う警察において、被疑者から採取した尿を右のように無造作に扱うことがあるとは、にわかに信じ難かったが、被告人の右供述の具体性・特異性にかんがみ、検察官にその点に関する立証を促したところ、双方申請の証人C及び弁護人申請の同上田(旧姓乙川)春子の各証言により、被告人の右供述の一部が事実であったことが裏付けられたのである(もっとも、当時同署に「乙川春子」という氏名の婦警が居たこと自体は、既に第二回公判におけるA証言により明らかにされているが、右A証言は、「当時、防犯課に『春子』という名前の捜査官が居たか。」という弁護人の質問に対してされたもので<記録三九丁裏>、当時既に被告人が、弁護人に対しては、のちの公判廷における供述と同旨の供述をしていたことを窺わせるものである。)。すなわち、右各証言によると、当時浦和西署勤務の婦人警察官であった乙川春子巡査(証言当時は既に結婚・退職して上田姓に改姓。以下、「乙川婦警」という。)は、二月一五日に覚せい剤譲受けの容疑で逮捕した女性被疑者(E)から尿の任意提出を受けたが、予試験の結果が陰性であったため、鑑定嘱託をすることなく、容器に封印し同婦警が署名した状態で、約二日間補導室の床に置いた状態で保管していたので、同月一六日被告人を同室で取り調べた際にも、右容器は同室内に置いてあった。しかし、右取調べの直後、右尿は容器ごと焼却処分にした、というのである。右証言は、尿の入った容器が補導室内に置いてあった時期が被告人の供述するそれと違う点を別とすれば、被告人の前期供述をほぼ裏付けるものであり、これにより、少なくとも、覚せい剤事件の被疑者から採取した尿に関する同署の取扱いが、極めて杜撰であったことが明らかにされた。もちろん、Cが認める採尿容器保存の時期は、被告人の供述するそれとは一致せず、被告人から尿を採取した時期よりあとのこととされており、また、右C証言中Eの逮捕の時期に関する部分は、留置人名簿の記載により、ほぼ支持されていると認められるので、右証言から、被告人の前記供述が全面的に裏付けられたことにはならないが、同証言によっても、予試験の結果が陰性であったという被疑者の尿を、何故に二日間も容器に封印したままの状態で補導室の床の上に無造作に放置していたのかについては何ら合理的な説明がされていないのであり、このような、極めて杜撰な証拠物の管理態勢のもとにおいては、被告人の主張する、被疑者の尿への他人の尿の混入という違法行為が、絶対に生じ得ないとも保証し難いというべきである。なお、当時、浦和西署において、被告人の尿へ混入すべき他の被疑者の尿が入手不可能な状態にあったか否かについては、のちに項を改めて論ずることとする。
第八 他人の尿の混入の可能性について
一 緒節
1 以上のとおり、浦和西署における本件捜査には、種種杜撰な点が認められ、その捜査及び警察官の証言に直ちに全幅の信頼を置き難いことが明らかとなったが、検察官は、当時浦和西署においては、被告人の尿に他人の尿を混入しようにも、混入すべき覚せい剤使用者の尿が入手不能の状態であったから、右混入という違法行為は、そもそもあり得る筈がなく、また、同署警察官には、右のような違法行為に走る動機がなかったから、いずれにしても、そのような可能性はこれを考慮する必要がないとの主張をしている。そこで、以下、証拠に基づき、(1)浦和西署における他の覚せい剤被疑者の尿の入手可能性(違法行為の客観的可能性)及び(2)同署の警察官がこのような違法行為に走る動機の有無(違法行為の主観的可能性)の二点について検討しておくこととする。
二 他の被疑者の尿の入手可能性について
1 浦和西署における覚せい剤被疑者の尿の管理が極めて杜撰に行われていたことは、既に一言したとおりであるが、右に検討したところによれば、C証言に現れた覚せい剤取締法違反の女性被疑者(E)の逮捕の日は、被告人からの採尿の日より五日あとの二月一五日であるとされているので、当日採取された同女の尿が被告人の尿に混入される可能性は、存在しないということになる。
2 他方、C証言によると、平成三年一月以降、本件以前に浦和西署が逮捕して採尿した被疑者としては、一月一八日に逮捕したF及びGの二名がいるだけであり、両名の尿からは鑑定の結果覚せい剤が検出されたが、右尿は全量鑑定に費消済みであり、他に、被疑者から尿の提出を受けた事実はないとされている。また、乙川証言も、平成三年一月以降本件当時までに尿を採取した女性被疑者としては、一月中旬に逮捕したGの記憶があるだけであるとし、右C証言を一部裏付けている。従って、右C=乙川証言が全面的に信用し得るものとすると、浦和西署の捜査員が、被告人の尿を混入することは、客観的に不可能であることになる。
3 ところが、右C証言等は、取り調べた留置人名簿の記載と必ずしも符合していない。すなわち、当裁判所が提出命令を発して取り寄せた留置人名簿(写)によると、平成三年一月以降二月一〇日までに浦和西署に身柄を拘束された被疑者とその被疑罪名は、
(1) 一月五日 三八歳男性 出入国管理及び難民認定法違反
(2) 一月九日 四〇歳男性 恐喝未遂、傷害
(3) 一月一一日 二二歳男性 窃盗、有印私文書偽造、同行使、詐欺
(4) 一月一九日 二五歳男性 覚せい剤取締法違反
(5) 一月二一日 二〇歳男性 右同
(6) 一月二一日 三九歳男性 傷害、暴行
(7) 一月二四日 一五歳男性 傷害
(8) 一月二四日 三九歳女性 覚せい剤取締法違反
(9) 一月二八日 四七歳男性 右同
(10) 二月五日 四二歳男性 右同
(11) 二月六日 六三歳男性 毒物及び劇物取締法違反
(12) 二月八日 二〇歳男性 窃盗
以上の一二名であるとされているが、右のうち、浦和西署で逮捕したとされているのは、(1)(2)(3)(6)(7)(9)(11)(12)の八名のみであり、残りの四名は、他の警察署で逮捕した上浦和西署で留置・勾留中のいわゆる「預かり」の被疑者である。ところで、これによると、まず、Cらが、一月一八日に逮捕したというF及びGの両名に関する記載が、浦和西署の留置人名簿に見当たらない。もっとも、検察官の釈明によれば、右両名については、同署で逮捕し採尿手続きを行ったが、他の署へ預かりとして留置を依頼したため、浦和西署の留置人名簿には記載がないものであるとされており、それはそれで一応尤もな説明であるが、もしそうであるとすると、同署で逮捕し採尿手続を行った被疑者で右留置人名簿に記載されていない者が、他にも存在したのではないかという疑いは、これを否定することができなくなる。また、前記留置人名簿の記載によると、同署においては、一月二八日に覚せい剤取締法違反の容疑で前記(9)の被疑者を逮捕・留置したことが明らかであるが、C証言は、一月中に同署で逮捕した覚せい剤取締法違反の被疑者は、一月中旬の前記F・Gの両名だけであった旨断定するものであって、同証言は、この点で留置人名簿の記載と明らかに抵触している。
4 このようにみてくると、一月以降、浦和西署で逮捕し尿を採取した被疑者は、一月中旬のF・Gの両名だけであったとするC証言は、必ずしも客観的証拠によって確実に支えられていないというべきである。そして、右の点に加え、前記第七において検討したとおり、同署における覚せい剤取締法違反の被疑者の尿の取扱いが極めて杜撰であったこと、同署で逮捕した被疑者の全てが留置人名簿に登載されるわけではないこと、逮捕にまで至らない覚せい剤取締法違反の被疑者からも、尿の任意提出ということが全く考えられないわけではないこと、他署からの預かりの被疑者(例えば、二月五日に留置したとされる(10)の被疑者)からも、何らかの名目で尿の提出を受けることが不可能とは思われないこと、同署においては、被疑者から提出された尿を、予試験の結果が陰性であるとして廃棄処分に付する場合には、何らの手続書類も残していない由であるので、同署において、いつ誰から尿の提出を受け、それがどのように処分されたかを書面に基づき確認することは、事実上不可能であることなどの諸点を併せ考察すると、本件当時、同署において、被告人の尿に混入すべき他人の尿が客観的に存在せず、捜査員がこれを入手し得べくもなかったとまでは断ずることができず、右尿の入手可能性は、証拠上未だに否定されていないというべきである。
三 動機の存否について
1 次に、浦和西署の警察官が、他人の尿の混入という違法手段を用いてでも、被告人を起訴に持ち込みたいと考えるような事情が存在したか否かについて検討する。
2 右の点につき、検察官は、被告人と浦和西署の間では、過去に何らの遺恨もなく、同署の警察官が、そのような違法行為までして被告人を罪に陥れる事情は全く認められないとし、C・Aらの各証言は、右主張に副うものである。
3 しかし、被告人は、浦和西署との間では逮捕される前からいろいろとやりとりがあり、逮捕後は、自ら警察官に対し挑発的・揶揄的な言動に及んだことがある旨供述しているので、右の点について検討してみることとする。被告人の供述によると、被告人は、平成二年八月末ころ、浦和西署のC刑事から、Hが被告人に覚せい剤を譲渡したと言っているから出頭するようにとの電話連絡を受けたが、「どうしてもというのなら、逮捕状を持って来い。」と言って出頭しなかったところ、同三年二月一〇日明け方、スナックで飲酒したあと、蒲田署の警察官に別の事件で身柄を拘束され、同署に連行されたのち、前記Hからの覚せい剤譲受けの件で正式に逮捕された。その後、浦和西署へ身柄を拘束され、右覚せい剤の件について取調べを受けたが、全く身に覚えのないことであったので一貫して否認したところ、Aから、「このやろう、いい加減に言っちまえ。」などと言われたため、からかう気になって、「しょんべんに出たら何でも言ってやるから、調べてみな。」などと言ったというのである。
4 被告人の右供述のうち、八月末ころのCとのやりとりについて、C証人はこれを否定するが、被告人の供述内容は甚だ特異で具体的である上、その時期は、同署がHを覚せい剤取締法違反容疑で逮捕した日(八月二一日)の直後ころにあたり、時期的に符合すること、その後、同署が、Hの供述に基づいて、現に被告人に対する逮捕状の発付を受けていることなどの点からみて、必ずしも虚構の事実をねつ造した虚偽の供述であるとは考えられない。また、右供述中、被告人が二月一〇日に逮捕された直後、Aの取調べに対して否認した際、「しょんべんに出たら何でも言ってやる……」旨からかったとの部分は「被告人は、一月末ころ覚せい剤を打ったというような言動をしたが、その態度は、逮捕された普通の人のそれではなく、べらべらとよくしゃべり、へらへらした感じだった。」というA証言と比較的よく符合しており、右取調べの際、被告人がAに対し揶揄的な言動に及んだことは、間違いのないところと考えられる。
5 他方、C証言によると、浦和西署は、平成二年九月二七日に被告人に対する覚せい剤譲受け罪による逮捕状の発付を受けたが、被告人の住居が不明であるとして同年一〇月三日全国指名手配にしていたところ、本件当日、蒲田署からの連絡を受けて被告人の身柄を引き取り、浦和西署において取調べを開始したものと認められる。そして、右の経緯に前記3、4記載の事情を併せると、浦和西署の警察官としては、指名手配の末ようやく他の警察署で逮捕してもらった被告人を何とかして自白させ、かりに譲受けについての有罪立証が難しい場合には(なお、Cが、逮捕後初めての取調べである二月一六日の取調べにおいて、被告人が否認している譲受けの事実については、わずか三〇分の取調べしか行っていないことを認めていること<記録一六一丁裏>からすると、同人らは譲受けの事実につき、被告人に対し公訴を提起するに足りる証拠を収集することが困難であることを、当初から予期していたのではないかとの疑問すら生ずる。)、自己使用罪ででも立件送致して、自己の面目を保ちたいという気持ちに駆られることも全くあり得ないことではないと考えられる。
6 そうすると、本件については、警察官が、違法な捜査によってでも被疑者(被告人)を有罪に追い込みたいと考える動機がなかったとはいえないと考えられるのであり、結局、違法捜査の主観的可能性は、これを否定し去ることができない(なお、右の点に関連して、前記第六、二8のとおり、二月一〇日のCの出勤時刻に関する供述が、A=B証言と矛盾・抵触している点を指摘しておく必要がある。すなわち、本件について、もし他人の尿の混入というような違法行為が警察官により行われたとすれば、右行為には、本件捜査の実質上の責任者で、かねて被告人と電話でやり合ったことがあるとされるCが、何らかの形で関与しているのではないかと推測されるが、同人は、前記のとおり、当日昼の一二時ころ出勤したと供述して、そのころには既に終了していた筈の採尿手続への関与を否定しようとしている。しかし、右C証言は、前記A=B証言と矛盾・抵触し、事実に反する疑いが強いのであって、――むしろ、全国指名手配中の被疑者が逮捕されたとなれば、右事件の捜査責任者であるCは、緊急連絡を受けて、休日とはいえ、いち早く出勤したと考える方が自然である――Cが、右のような重要な点について事実に反する疑いの強い供述をしている事実は、逆に、同人の指示により右違法行為が行われたからではないかという疑惑に連なり得るものというべきであろう。)。
第九 被告人の供述の再検討
一 緒節
1 以上のとおり、本件においては、(1)採尿をめぐる違法捜査がなかったとする警察官の証言が一部客観的証拠と抵触し内容的にも疑問であり、(2)被告人の注射痕の証拠保全や他の被疑者の尿の保管等の面でも、通常考え難い著しく杜撰な処理が行われている上、(3)右杜撰な捜査態勢を前提とすると、捜査官が被告人の尿に混入すべき他人の尿を入手することが不可能であったとは考えられず、(4)捜査の経過に照らすと、警察官が右のような違法捜査をしてでも被告人を有罪に追い込みたいという気持に駆られることも、あり得ないことではないと考えられるのであるから、本件に関する有罪立証は、既にかなりの程度動揺しているといわざるを得ない。従って、他に有力な積極証拠の見当らない本件においては、以上の検討のみにより、公訴事実につき合理的な疑いを越えた立証がないものとして、無罪の言渡しをするのが筋の通った考え方であると思われる。
2 もっともこれに対しては、前記第六、一において指摘した被告人の捜査段階以来の供述中の疑問点を重視する立場から、被告人の弁解は全て「ためにする」虚偽の弁解であると断じた上で、この点を逆に有罪立証を補完する資料とする見解が提唱され得ると思われる。しかし、公訴事実を立証すべき積極証拠が不十分で、これのみによっては、被告人が右犯罪を実行したとの確実な心証を形成できないときは、そのこと自体によって無罪の言渡しをするのが本筋であり、被告人の供述を含む消極証拠の中に矛盾・不合理があるということを、有罪立証を補完する資料とすることは、本来許されない筈である。
3 ただ、そうはいいながら、犯行を否認する被告人の供述中に、常識上到底納得し難い不合理がある場合に、このことが、積極証拠の不合理性の程度の判断に、全く影響を及ぼさないと考えるのも、やはりいささか理に走りすぎた見解であるというべきであろう。そこで、以下においては、被告人の捜査段階以来の供述中に、常識上到底納得し難いような重大な不合理があるといえるか否かという観点から、前記第六、一の疑問点につき、念のため、更に掘り下げた検討を加えておくこととする。
二 採尿報告書添付写真5との抵触について
1 被告人が、「便所内においては、抵抗して容器への指印を拒否した旨、採尿報告書添付写真5(以下、「写真5」という。)に撮影された状況と明らかに抵触する供述をしていることは、前記第六、一1(1)に指摘したとおりであり、被告人が、このように明白な客観的証拠との抵触を意に介することなく、あえて自説を強弁しているのであるとすれば、その余の点に関する供述の信用性は、右の一事だけからみても大幅に低下すると考えざるをえない。
2 しかし、被告人は、他方において、「第一回目の採尿の際、小便器のところで二枚写真をとられ、第二回目の採尿の際は、大便室で二、三枚写真をとられた。」旨、その後検察官から提出されたベタ焼き写真と正確に符合する供述もしているのであり、このような被告人が、既に写真5によって明らかにされている状況と抵触する虚偽の弁解を、ことさらにしていると考えるのも、やや不自然である。そこで、被告人が、右の点につき単純に思いちがいをしていると考える余地はないかという観点から更に検討するのに、被告人は、前記供述に引き続き、大便室で採尿後、警察官が採尿容器に何か入れたと思い込んでしまい、かなり興奮していたので、そのあとのことは、一寸覚えていない旨の供述もしているのである(記録一二八丁裏)。そして、被告人が、大便室を出たあと、Aの不審な挙動を目撃して、提出した採尿容器に同人が異物を混入しているのではないかと感じたとすれば、「興奮してそのあとのことをよく覚えていない」ということも十分あり得ることというべきであろう。また、被告人が容器に本格的に署名指印させられたのは補導室に戻ってからであるため、右の点の印象が強く残り、便所内での指印を失念しているということも考えられる。このように考えてくると、被告人の供述が写真5の状況と客観的に抵触しているということは、必ずしも被告人が自己の記憶に反する虚構の事実を強弁しているということを意味せず、被告人が、右状況を単に失念しているにすぎない可能性、更にいえば、その直前に、被告人の供述するような警察官との激しいやりとり(いわゆる「悶着」)があった可能性を示唆するものですらあるということになる。
3 そうすると、被告人の供述が写真5と抵触するという点は、被告人の供述全体の信用性を大きく低下させるような決定的な事情ではないというべきである。
三 被告人の捜査官調書に弁解の記載がないことについて
1 被告人の員面・検面は、覚せい剤自己使用の事実は身に覚えがないとする否認調書であるのに、その中に、警察官により他人の尿を混入されてしまった旨の公判廷における供述と同旨の供述(あるいは、その手がかりとなるような供述)の記載がなく、むしろ、「いかなる理由により自己の尿から覚せい剤反応が出たのか見当がつかない、強いていえば、日頃飲んでいる風邪薬などの影響ではないか。」という、警察官の違法行為の目撃を否定する趣旨にもとれる記載があることは、前記第六、一1(2)に記載したとおりである。この点が、当初から警察官の違法行為を疑い、現場でも強く抗議したとする被告人の公判廷における供述の信用性をかなりの程度低下させ得る事情であることは、率直にこれを認めなければならない。特に、検察官も指摘するとおり、員面にだけでなく検面においてすら右の程度の記載しかないということは、見方によれば、右供述の信用性を大幅に低下させ得る要因であるということもできるかと思われる。
2 しかし、まず、右の点に関しては、被告人の供述調書が、いずれも捜査官の要約録取にかかるもので、被告人が捜査官に述べた言い分が、必ずしもこれに全て正確に記載されている保証はないという点を、念頭に置く必要がある。いわゆる要領調書の作成にあたっては、捜査官は、その記載事項を自由に取捨選択することができるのであり、被疑者が供述した重要な弁解が、意識的にか無意識的にかはともかく、その記載から漏れるという事態のあることは、日常往往にして経験するところである。従って、供述調書に記載がないという一事から、当該供述を、被疑者が取調官に供述しなかったと即断するのは危険である。現に、本件においても、Cは、被告人が取調べ又は鑑定嘱託の際に、「おれの尿じゃない。」とか、「ほかの人が入れたんじゃないか。」などと、採尿段階における警察官の違法行為の存在を指摘する供述をしたとの事実を認めた上で、「そういうことは絶対ない。」旨被告人に対し強く否定した旨証言しているが(記録一六〇丁)、同人作成の被告人の供述調書には、被告人のそのような弁解は全く録取されていない。このような点からすると、被告人の員面及び検面に、その公判廷における弁解と同旨の供述あるいはその手がかりになるような供述の記載がないことを、心証形成上余りに重視するのは、問題であるといわなければならない。
3 次に、右の点をひとまず措いて、この点に関する被告人の供述をみてみることとする。この点に関する被告人の供述は、員面については、①(他人の尿を入れられたということを)言っても、いろいろな意味でいやがらせをされるだけだと思い、半分諦めみたいなものが出てしまったとか、②実際言ったが、容れてもらえなかったというものであり、検面については、③「検事に『予試験の残りを入れたような状況がある』とか、『予試験の残りというのを入れたけど、私は分んない。』などと言ったら、『それは別に問題ないだろう。』と取り合ってもらえなかった。」などというものである。右のうち、②は、前記のとおりC証言により裏付けられており、①も、警察署の留置場に身柄拘束中、違法な採尿をしたと思われる警察官の同僚から取調べを受けている被疑者(被告人)の心理として、理解し得るところである。問題は、③の弁解であり、検察官は、右弁解が不合理である旨強調して、この点を被告人の弁解が虚偽であることの有力な論拠としている。確かに、常識的に考えると、右③の弁解は、公判廷で強く犯行を否認している被告人のそれとしては、いささか迫力が不足しているとの感を禁じ得ないかと思われる。被告人が、公判廷において極力弁疎するように、尿を提出した直後から、警察官により他人の尿を混入されたのではないかという強い疑いを抱き、採尿直後から容器への署名・指印を拒否するというような行動に出ていたのであれば、かかる違法行為をした警察官の同僚による取調べの際はともかくとして、少なくとも検察官による取調べの際には、その旨強く主張して然るべきではなかったかと思われ、右のように、「(尿に)予試験の残り」ないし「予試験の残りというもの」を入れられた旨訴えただけで、検察官から「別にそれは問題ないだろう。」とあしらわれるや、そのまま引っ込んでしまったというのは、一見いかにも奇異に感ぜられないではない。従って、右の点は、前記2の点からの考慮を別とすれば、被告人の公判廷における供述の信用性を大きく減殺するのもののようにも考えられよう。
4 しかしながら、右の点に関し、そのような結論を下すことについては、なお躊躇させるものがあるというべきである。なぜなら、被告人は、採尿直後にAらの不審な行動に接し、その場で抗議した際、同人から、「予試験の残りを入れた。」との説明を受けた旨供述しているところ(記録一〇七丁)、たとえ、被告人が、採尿現場において、警察官の不審な行動に接してこれに全面的には承服し難く警察官に対してなお抗議の意思を表明していた場合でも、Aに前記のような説明を受け、また、Cにより「そのようなことは絶対にない。」旨強く否定されれば、まさか警察官によって自己の尿に他人の尿を混入されたとまでの確信に到達することなく、他人の尿の混入の疑いについては検察官に強く主張するまでに至らないまま取調べを終了してしまい、起訴後になって改めて当時の状況を思い起すにつけ、自己の目撃した警察官の不審な行動により、他人の尿を混入されたとしか考えられないとして、この点を強く主張するに至るということもあり得ないことではないと考えられるからである。現に被告人は当公判廷において、前記供述に引き続き、「まあ、多少はありましたけど、まさかそこまではというのが半分以上でしたよね。」「はっきり、他人の尿とは言ってませんけどね、私も他人の尿とは言い切れませんから。」「こうして考えてみると、それしか思い当るところがないんですよ。」などと供述しているが、右供述は、Aから前記のような説明を受けた被告人が、半信半疑のまま、警察や検察庁で一応は異議を唱えてはみたものの、取り合ってもらえないので、それ以上強くは主張することなく取調べを終わってしまったが、その後、覚せい剤自己使用罪により起訴されて当時の状況を改めて思い起こすにつけ、自己の尿から覚せい剤が検出された原因は、当時の警察官の不審な行動以外には考えられないとの確信を深めるに至った心の動きを率直に表現したものとみられないことはない。また、被告人のように、覚せい剤事件で何回も警察での取調べを経験し、代用監獄における被疑者の待遇を熟知しているとみられる者にとっては、警察官の違法行為を捜査官に強く訴えることが、代用監獄における自己の今後の取扱いにどのような影響を及ぼすかを容易に想像し得たと考えられるのであり、まして被告人が、右違法行為の存在を確信するまでには至っていなかったとすれば、一旦主張した異議をまともに取り上げてもらえなかったことに落胆して、待遇の悪化をもたらすと予想される右異議を、それ以上強く主張しないということも、必ずしも理解できない心理ではないというべきである。
5 もっとも、そうなると、「採尿現場で(Aに対し)他人の小便を入れたんじゃないかと、はっきり言った。」とする被告人の弁解(記録一〇八丁)は、前記供述と実質的に矛盾してしまうのではないかという議論もあり得るが、採尿の現場でAの不審な行動に接して直感的に他人の尿を入れられたと感じた被告人が、右現場で一旦はその旨強く異議を唱えてみたものの、同人から「予試験の残り云々」の話を聞かされて、不満を残しながらも半信半疑の気持ちになるということは、あり得ないことではないというべきである。
6 そうすると、この点に関する被告人の供述は、必ずしも実質的に前後矛盾するものではないと考えられるが、かりにその間に若干の抵触があると仮定しても、法律的な素養に乏しい被告人が、身に覚えのない覚せい剤自己使用罪で起訴されたとすれば、身の潔白を強調したいがために、多少事実を誇張した弁解をすることは、時にありがちなことであるからこのような弁解の不合理性にのみ強く注目して、これを有罪心証の決め手とするときは、事実の認定を誤るおそれなしとしない。
7 従って、被告人の公判廷における供述の信用性を一見大きく減殺するかに思われる前記検面の記載は、必ずしも採証上決定的な意味をもつものではないと考えるべきであろう。
四 鑑定対象物たる尿の覚せい剤濃度について
1 被告人の署名・指印のある採尿容器に在中する尿につき覚せい剤反応の有無を鑑定した証人関根均によれば、右尿の覚せい剤濃度は一ミリリットル当たり三四マイクログラムで、右の濃度からすると、本件尿は、覚せい剤を使用したあとそれ程期間を置かない時期のもの(せいぜい二、三日位)と考えられるとされている。右証言は、必ずしも趣旨明瞭ではないけれども、本件鑑定対象物たる尿が約一五ミリリットルと比較的少なかったのに覚せい剤を検出することができたとする部分と併せると、尿中の覚せい剤濃度が余り低くなかったということを意味すると思われる。そうであるとすると、被告人が提出した尿に警察官が他人の尿を混入するという方法で、右のような覚せい剤の濃度を作出することができるかどうかが、問題になり得ると思われる。
2 右の点は、被告人が提出した尿の量と、混入する他人の尿及び右尿中の覚せい剤濃度との関係によって定まるのであり、これらの因子がいずれも確定できない本件においては、この点を推定することは極めて困難であるが、例えば、被告人が公判廷において供述するように、第二回目の採尿により提出した尿の量が約一〇CCであったと仮定し、Aが、そのうちの一部を予試験用に取り分け、その代わりに第三者の尿を混入した結果、全量約一五CCの鑑定対象物たる尿を作出したと考えれば、右第三者の尿の覚せい剤濃度が異常に高くなくても、右尿の覚せい剤濃度を関根が証言する程度に保つことは可能のように思われる。
3 以上のとおりであるから、鑑定対象物たる尿の覚せい剤濃度の点も、被告人の供述の信用性を大きく減殺するものではないというべきである。
五 計画性と稚拙性について
1 被告人が現認したAの動作が、被告人の尿に他人の尿を混入しているものであったとすると、Aらの行動は、一方において、予め混入用の他人の尿を準備・携行して便所へ赴くという計画性と、他方において、被告人に発見され易い便所内で重大な違法行為(すなわち、他人の尿の混入)を実行するという稚拙・拙劣性を併せ持つことになり、確かにいささか不自然であるとの感を免れない。
2 しかし、もし、Aらが、被告人の身体に真新しい注射痕を発見しておらず、あるいは第一回目の採尿の際提出された尿の予試験の結果により、そのままでは被告人の尿から覚せい剤反応が得られないことを知っておりながら(本件捜査の経過からすると、右各可能性は、いずれも否定されていない。前記第七、一、二各参照)、被告人を何とかして覚せい剤自己使用罪により有罪に陥れようと考えたとすれば、入手可能な他の覚せい剤被疑者の尿を採尿場所へ携行するということは、当然考えつくことと思われる。もっとも、検察官も主張するように、その場合、注意深い捜査官であれば、被疑者(被告人)から提出を受けた尿を一旦別室へ運び、被告人の目の届かない場所で尿混入の挙に出るかとも考えられるが、封印・指印前の採尿容器を一旦被疑者の目の届かない別室に運び込むときは、そのこと自体により尿のすり替えや混入などという疑惑を招くことも明らかであるから、捜査官が、右のような方法をとることなく、むしろ被疑者(被告人)のいる便所内で、その油断と意表を突き、予試験用の取り分けを装って他人の尿を混入するという方法に思い至ることも、十分あり得ることと考えられる。
3 このように考えてくると、この点もまた、被告人の供述の信用性を大きく左右するものではないというべきである。
六 被告人の供述のその余の特徴について
1 被告人の供述には、右二ないし五のような問題点がある代わりに、その信用性を高める次のようないくつかの特徴も存するので、以下、これらの点を一括して指摘しておくこととする(そのうちの一部については、既に警察官の証言の信用性の項で指摘してあるが、考察の便宜のため、以下に重複をいとわず再度掲げる。)。
2 まず、採尿状況に関する被告人の供述は、採尿報告書添付の写真(ただし、写真5を除く。)及び報告書添付のベタ焼き写真と基本的に抵触せず、その正確性が客観的に担保されている。特に、被告人の供述中、第一回目の採尿の際、小便器のところで、二枚位写真をとられ、第二回目の採尿の際、大便室で二、三枚写真をとられたとする部分(記録一二七丁)は、報告書添付のベタ焼き写真が当公判廷に提出される以前にされたものであるが、それが後刻右ベタ焼き写真によって客観的事実と符合することが確認されたという経緯もあり、右の点は、採尿状況に関する被告人の供述全体の信用性を高める結果となっている。
3 「第二回目の採尿の際は、小便器の前に立つことなく、いきなり大便室に入ったものであり、大便室で採尿したあと、容器を大便室のドアの外に置いてAに渡し、二、三分から五分以内で排便を済ませて外に出た。」という被告人の供述は、①その際、小便器の前に立っている写真が存在しないこと、②当時下痢がひどかったという被告人の行動として、直接大便室に入るのが自然であり、また、③採尿後も引き続き排便を済ませたいと考えるのが自然であること、以上の三点からみて信用性が高いと認められ、これと抵触するA証言は、にわかに措信し難いと考えられる。
4 覚せい剤自己使用の事実を強く否認していた被告人が、採尿容器を警察官に渡したのち、何らことわりもなくこれに紙コップに入った尿を注入している警察官の行動を目撃していたとすれば、他人の尿を混入されたのではないかと疑って、これに異議を唱えるというのはごく自然であり、右行動に出たとする被告人の供述は、これを素直に理解することができる(これに反し、Bは、被告人の右行動を否定するが、かえって、不自然である。)。
5 被告人は、これまでに覚せい剤取締法違反罪で、二回懲役刑の実刑に処せられたほか、窃盗、同未遂等他の罪名で三回懲役刑に処せられて、そのいずれについても服役している暴力団員であるが、従前の事件の公判においては、事実を全く争うことなく、全て第一審の有罪判決に服している。そして、被告人は、本件についてかりに有罪判決に処せられても、その刑期は、懲役一年か一年半、せいぜい二年位であろうと、判決結果を的確に予測しており(記録一一九丁裏。ちなみに、その後の公判における検察官の求刑は、「懲役二年」であった。)、「前科五犯も六犯も違いはないし、本件についての裁判結果によって、組での扱いにも変わりはない。既に、未決で半年以上も身柄拘束されているし、控訴などしていたら、かえって拘束が長引くので、刑をつとめてしまっても、実質は変わらないと思うが、やっていないことを認めてしまうのは、承服し難い。」との趣旨の供述をしているのであり、右供述は、前記のような被告人の従前の事件の公判における供述態度や服役状況、更には、被告人の暴力団における地位等からみて、無視し難い説得力を有するというべきである。そうすると、採尿状況に関する被告人の供述は、右の点においても、信用性の裏付けを有することとなろう。
第一〇 総括
1 これまで検討したところを総括すると、次のようになる。
本件の採尿の際、自己の尿に他人の尿らしきものを混入されたという被告人の供述については、一部客観的証拠と抵触したり、否認調書である検面に、その手がかりとなるような記載もないなど、その信用性には疑問の余地がないではないが、他方、かかる違法行為がなかったとする警察官の証言中にも、客観的証拠と明らかに抵触したり、内容的にみて容易に納得し難い不合理な点があり、更に、本件捜査全体を通観すると、本件捜査に関し、第一回目の採尿の際に提出を受けた尿の処分方法、第二回目の採尿の際に提出を受けた尿により行ったという予試験の方法、その結果の被疑者(被告人)への告知の有無、他の覚せい剤被疑者の尿の保管方法、被告人の身体の注射痕の証拠保全の方法等をめぐり、少なくとも杜撰極まりないとの評価を免れない措置がとられていることが明らかである上、浦和西署の警察官が、被告人の尿に混入すべき他の覚せい剤被疑者の尿を入手することが不可能であったとは認められず、他方、同署の警察官が、かかる違法行為によってでも被告人を罪に陥れたいという気持ちに駆られても不思議ではない事情もあったと認められるので、結局、本件については、自己の尿に他人の尿を混入されたという被告人の供述を排斥するに足りる確実な証拠を見出すことができないというべきである。
2 もちろん、右のようにいうことは、本件において、警察官による違法行為が行われたことが確実であるとか、その疑いが極めて強いということまでを意味するものではない。当裁判所としても、検察官と同様、いやしくも現職の警察官により、このような重大な犯罪行為が行われるというようなことはあり得ないものと信じたい。しかし、現職の警察官といえども、その置かれた状況の如何によっては、法律上許されない違法行為に走ることがあり得ることは経験の教えるところであるから、「いやしくも警察官がかかる違法行為に出ることはあり得ない」という前提に立脚して、証拠の評価を行うのは、正しい採証の態度ではないというべきであろう。そして、前述したとおり、覚せい剤被疑者からの採尿手続は、それが覚せい剤自己使用罪の有罪立証の決め手となる物的証拠を獲得する重要な手続であるのに、複数の警察官と孤立無援の被疑者だけしかいない密室内で行われるため、被疑者(被告人)側がその適法性を争うことは事実上容易ではないこと、他方、捜査官に手続の厳守を求めその過程を確実な客観的証拠により記録化しておくことを求めることは、捜査官に対し過当な負担を強いるものではないと認められることなどからすると、採尿手続等に関して生じた疑問点については、捜査官に対し、ある程度厳しい評価がされてもやむを得ないというべきである。そして右のような立場から本件について検討すると、本件採尿手続等に関しては、捜査官側の少なくとも著しく杜撰・不手際な措置が多数重なり、違法行為の存在を否定する捜査官の証言に全幅の信頼を置き難い状況が現出されているというべきであって、取調べ済みの全証拠をもってしても、被告人の供述するような警察官の違法行為が介在した合理的な疑いは、未だ払拭されていないというべきである。
3 そうすると、本件においては、浦和西署から科捜研に対し、被告人の尿として鑑定嘱託された尿から覚せい剤が検出されたということから、被告人が、公訴事実記載の日時ころ、覚せい剤を自己の体内に摂取して使用したとの事実を推認することは許されず、右事実については、未だ、証拠上合理的な疑いをさしはさむ余地が残されているというべきである。
4 なお、付言する。被告人が、本件覚せい剤取締法違反の罪を犯した事実が絶対にないのかどうか、それは、神ならぬ身の当裁判所にとって、窺い知ることのできない事実である。しかし、このことだけはいえる。当公判廷の審理によって明らかにされた、少なくとも杜撰極まるとの評価を免れない浦和西署の捜査手続及びこれによって収集された証拠に基づき、被告人に有罪判決を言い渡すときは、刑事裁判において許されることのない無辜の処罰に連なるおそれがある。刑事裁判の鉄則とされる「疑わしきは被告人の利益に」の原則は、本件においても尊重されなければならない。
第二 結論
以上の検討の結果明らかなとおり、本件公訴事実については、その証明がないことに帰着するから、刑訴法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官木谷明)
理由目次
第一 公訴事実
第二 証拠関係及び証拠上の問題点
第三 覚せい剤自己使用事件の特徴及び同事件に対する当裁判所の基本的姿勢
第四 証拠上明らかな事実
第五 採尿状況に関する警察官及び被告人の各供述の要旨
第六 採尿状況に関する両供述の信用性の比較
一 被告人の供述に対する疑問
二 警察官の証言に対する疑問
三 一応の結論
第七 本件捜査遂行上の問題点
一 採尿にまつわるその余の問題点
二 注射痕に関する捜査の不備
三 その余の捜査上の問題点
第八 他人の尿の混入の可能性について
一 緒節
二 他の被疑者の尿の入手可能性について
三 動機の存否について
第九 被告人の供述の再検討
一 緒節
二 採尿報告書添付写真5との抵触について
三 被告人の捜査官調書に弁解の記載がないことについて
四 鑑定対象物たる尿の覚せい剤濃度について
五 計画性と稚拙性について
六 被告人の供述のその余の特徴について
第一〇 総括
第一一 結論